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少女マンガにおける「少年愛」の意味

藤本由香里──書籍編集者・マンガ評論家

 少女マンガ──といえば、「ああ、あの、目の中に星が入っていて手足がやたら長 いやつね」というのか「ああ、美少年のホモセクシュアルがやたらと多いっていうん でしょう」というのが、だいたい普通の人の反応の二つのパターンである。どちらも 少女マンガの一面しかみていないのであるが、ことほどかように、美少年のホモセク シュアル、つまり「少年愛」といえば少女マンガ、少女マンガといえば「少年愛」と いう図式は広く定着してしまっている。そしてこの「少年愛」こそが、少女マンガが 前者の「目に星」の世界から離脱(テイク・オフ)するための契機であった、という 解釈をされるのが普通である。実際、少女マンガを新しい表現ジャンルとしてとらえ ようとする時には、この世界は避けて通ることはできない。

 さて、では改めて少女マンガにおける「少年愛」の意味を考えてみようとする時、 これに先がけて現われる「男装の少女」を考えてみることが参考になる。これを見て みることで、少女マンガにおける「少年」の姿のもつ意味が明らかになると思われる からである。少女マンガにおける「男装の少女」というのは、実に少女マンガ自体の 嚆矢(こうし)である手塚治虫「リボンの騎士」から始まるのであるが、その系譜を みていくと大きく二つに分けることができる。すなわち、

 〔一〕男の姿をとることで、女では不可能な社会的地位や権力を手に入れることが
    できる。
 〔二〕とりあえず自分が性的な存在ではない、ということを示す。つまり女性性を
    覆い隠すための男装。

 このうち大事なのは〔二〕の観点である。少女マンガには、“成長の忌避の表現と しての男装”(たとえば、萩尾望都『雪の子』、山岸涼子『シュリンクス☆パーン』 など)がしばしば登場する。彼女たちは何らかの形で自らの内なる女性性に対する否 定的な感情を刷り込まれ、<女>になりたくないがゆえに「少年」の姿をしているの である。だから逆に、彼女たちが好きな人と出会い、ゆくてに幸福な性が約束される 時、彼女たちは女であることを受け入れ、男装を解く(『リボンの騎士』のサファイ アが、フランツ王子の前でだけは、“亜麻色の髪の乙女”であったことを考えてみる とよい。逆に好きな男(ひと)がいるのに男装をとくことが許されない場合、それは 耐えがたい苦しみとして描かれることになる)。

 この、好きな男(ひと)の前でだけ、女でありたい、というのは全女性に共通の願 いである。最近では清水玲子が、『月の子』の中で、小さな男の子の姿から輝くばか りに美しい女性の姿へと変性する宇宙人魚(にんぎょ)ベンジャミンが、 ほんとうにすきな男(ひと)以外からキスをされたり抱きしめられたり、ともかく性 的な意味でさわられると(それがどんなにハンサムであろうと)もとの小さな男の子 に戻ってしまう、という設定を描いている。これを読んだ時、私は、女の理想だ、と 思ったものだ。

 ともあれ、“女の性は怖れから始まる”“女の性にはさまざまなマイナスがまとわ りついている”──これが、最大の命題である。少年の姿は、女の性にまとわりつく さまざまなマイナスをコントロールするための装置なのだ。

 そして、いうところの“花の二十四年組”(昭和二十四年前後に生まれたマンガ家 たち。萩尾望都・大島弓子・竹宮恵子、のちに山岸涼子も含める)によって、「少年 愛の世界」が描かれはじめた時、そこには、従来の男女関係、性別役割に対するアン チテーゼが強くはたらいていた。彼女たちは、異性愛の物語を描いた時にどうしても はまってしまう従来の文化パターン、決まりきったシナリオにがまんがならなかった のだ。

 最近、萩尾望都氏にインタヴューする機会があったが、彼女はその中で、「自然な 見えない差別っていうのがあるでしょ。あれがほんとうにうっとうしくて」と言い、 続けてこう語っている。「......私の考えの中では、現実にある女の人を描いて、現 実にありそうな男の人を描いた時、もう、展開するパターンっていうのがだいたい読 めちゃうんですよね。ここでこう押すだろうな、ここでこうひくだろうな、とか。こ こでこう『雨やどり』(聴き取り不能。あのあたり?)になって、ここでこう『亭主 関白』にいくんだろうな、とか。ニューミュージックの世界じゃないけれど。で、そ れしか可能性がないとしたら、まあなんてつまんないんだろう。せめて──創作の世 界っていうのは、結局、内面世界を補佐するものだから、まあ補佐してやってみよう か、っていうんでそこらへんを描いたりしたんですよね。普段は考えられない価値観 でもって、いきなりがらっと世の中のたが、っていうか、けじめというのが外れちゃ う、これまでそれがあたりまえだったのに、というのががたーっと狂っちゃう。そう いうのが面白いんですよね、言ってみれば」。(NHKセミナー・現 代ジャーナル「少女マンガにみる恋愛観」)

 そしてまた彼女は、放映されなかった部分で、「あの頃の少年マンガがあんなに『 男・男・男』といっていなければ、あんな作品(『トーマの心臓』)は描かなかった かもしれない」と答えている。また、吉本隆明氏との対談(『ユリ イカ』1981年7月増刊号)で、『トーマの心臓』の原型である『11月のギム ナジウム』は、実は最初、男パターンと女パターンと両方描いてみたのだが、女パタ ーンの方は“生々しすぎて”やめた、という意味のことを語っているのも興味深い。

 その性質上、“拒絶される愛”として出発せざるを得ない「少年愛」が、異性愛が 陥りがちな安直なパターンを廃して、「緊張感と葛藤」を維持するための装置である ことは、竹宮恵子・木原敏江両氏も中島梓との鼎談(『美少年学入 門』)の中で語っているし、吉田秋生氏も、ホモセクシュアルというのは何 も生まないどんづまりだからかえってそこに賭けられるパワーはすごいと思う、と答 えていた(『コミックボックス』1990年9月号インタヴュー) 。つまり、「少年愛」というのは、当初、手垢にまみれた異性愛、既製の男 女関係の枠組から自由に、「純粋な関係性」のみをとりだそうとした試みだったので ある。

 そしてまさに「少年愛」は、少女たちにとってはコロンブスの卵だった。もともと は、とりあえず女性でないもの=性的な存在でないもの、として描かれていたはずの 「少年」の姿を、ホモセクシュアルという枠組に投げこむことによって、彼女たちは 、自分たちの側に痛みをともなわずに性愛を操作することができる、ということを発 見したのだ。

 それに大きく先鞭をつけたのが、竹宮恵子『風と樹の詩』であった。その大胆な性 愛のシーンは、少女マンガが<愛>ではなく<性の欲求>を正面から描いた初めての 試みであった。そこには、SMがあり、近親相姦があり、強姦がある。しかし、異性 愛のコードで汚れていないぶん、その「痛み」は、純化されたものとして描きだされ る──。

 だが、ここではまだ、「少年愛」は“拒絶される愛”のモチーフをひきずっていた 。<関係>を描こうとする作家(アーティスト)の志は高かったというべきだろう。 しかし、読者である少女たちは、これらの作品を通して「少年愛」という装置が、自 分と性愛との間に安全な距離を作ること、ひいては、自分にも<性愛を遊ぶ>という ことが可能なのだ、ということを悟ってしまったのだ。

 かくして少女マンガにおける「少年愛」、美形ホモセクシャルの描かれ方は徐々に 変質をとげはじめる。当初の深刻さ、真剣さは後方にしりぞき、一種のパロディ、遊 びの要素が強くなってくるのである。これには、昭和五十年前後にあらわれる、先述 した“花の二十四年組”の少年愛作品に先行する形で登場した「女装する美少年」も の(岸裕子「玉三郎恋の狂騒曲」、名香智子「花の美女姫」、など )のイメージが影を落としているように思われる。実際、この二つ──「少 年愛」と「女装」がさまざまに合体し、複合する形で、その後の少女マンガのさまざ まな性別越境、多型倒錯的な流れをつくっていくのである。

 だが、何といっても注目すべきは、プロの商業作品のみならず、少女たち自身が、 「少年愛」を自己表現手段として採用したということだ。読者の投稿を主体とした少 年愛雑誌『JUNE』が、昭和五十六年に創刊され、続いて『小説JUNE』が昭和 五十七年に創刊された。そして何より、マンガ同人誌の圧倒的主流が、既 存のマンガ作品(それも『キャプテン翼』や『聖闘士(セイント)星矢』など“男の 世界”といった作品)のホモセクシャルパロディとなり、かつて同人誌全体をさして いた「まなし、ちなし、みなし」の「やおい」 という言葉は、いまやその手の作品をさす言葉となった。その結果「め て、尻が、たいから」という新説(?)までとびだす始末で ある。

 このことはいったい何を意味するであろうか? なるほど彼女たちの描くものは、 今のところ、危険な性関係の安全なシミュレーションという域をでていない。しかも それは、今までの男女関係(それもドラマチックで過激な)のイメージを、驚くほど そのままなぞっている。しかし、このような表現をとり続ける時、視点は徐々にずれ ていく。少女マンガで描かれ続けた性別越境の物語は、当初はそのような意図で描か れたのではなかったにせよ、その読者が現実の同性愛者や女装者に対して驚くほど寛 容になる素地をつくった。それと同じく、姦(や)る側と姦(や)られる側が同じ性 である「少年愛」のシミュレーションは、視線の移動を容易にし、少女の側を視る側 、つまり能動的な位置を獲得することに徐々に慣れさせてはいかないだろうか。それ はまだ可能性でしかない。そしてそれは、彼女たちが実際の性交を知ったあとに生き てくる視点であろう。しかし、徐々に起こりつつあるように見えるこの地すべり的な 変化を、私は期待をこめてみつめているのだ。

(『ニュー・フェミニズム・レビューVOL.2:女と表現──フェミ ニズム批評の現在』1991年5月。これは著者の許可を得て載せたものです。) Copyright Yukari FUJIMOTO 1991. Reproduced with permission of the author.

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マット・ソーン(
文化人類学者
京都精華大学マンガ学部
マンガプロデュース学科
准教授